ソウルの南150km、人の気配のない川のほとりで営業する珍妙なデザインのトラックカフェ。
自転車で店先をかすめる私を見つけるやいなや、マスターが何かを叫びながら大きくこちらへ手を振った。奥さんも恥ずかしそうにこちらへ微笑んでいる。
ソウルへと急ぐ足を止めるには十分すぎる理由だった。
ブレンドコーヒーを注文し、一通りの挨拶と私が大邱からソウルへと旅をしていること、日本の大学生である旨を伝えるとマスターは随分感心した様子で大きく頷いた。
こんどは私が彼の人生について尋ねてみた。
一瞬、少し困ったような表情を見せたが、コーヒーが出来上がるのを待つ間にぽつりぽつりと過去の話を始めた。
Contents
マスターの経歴
マスターを務めるのは姜さん(55)、トラックカフェを始めたのはちょうど10年前に遡る。それ以前はソウルで業界大手の証券会社に務める証券ディーラーだったようだ。会社の中でも常にトップクラスの成績を上げ続けた姜さんは上司からは頼りにされて、部下からは慕われる存在で見事に出世コースに乗り、会社での役職も徐々に重要なものに変わっていった。しかしそんなある日、姜さんは突如会社を退職してしまう。
「職場で何かあったんですか?」
「いや、何もなかったんだよ」
「何かやりたいことがあったんですか?」
「いや、何もなかったよ」
「それならどうして職を捨てるような思い切った選択をしたんですか?」
「どこへ向かうべきかはわからなかったけど、このままその場所にいてはいけないことだけはわかっていたのさ」
突然の退職
突如として会社を退職した姜さんに周囲は驚き、大病を患った、会社の金を使い込んだ、社長に嫌われて辞めさせられたなど根も葉もない噂が飛び交った。
何よりも驚いたのは当時の妻だった。幼い子供2人を抱えて急に職を捨てた夫に愛想を尽かした妻は離婚を切り出し、多額の慰謝料とともに姜さんの目の前から消えた。
「それでトラックカフェに?」
「ああ。なんでカフェを選んだかはもう忘れてしまったよ。でも10年続けられたってことはきっと自分にあってたんだろうね」
「いつもこの川のほとりで店を出してるんですか?」
「そうよ、でも昔はソウルのオフィス街に店を出してたのよ」
ここで、マスターの奥さんが背中ごしに会話に入ってきた。
奥さんとの出会い
今の奥さんとはトラックカフェを始めたばかりの頃に出会ったそうで、知名度も低く全く人気が出ないトラックカフェに毎日コーヒーを飲みに来ていたのが今の奥さんだそうだ。
「マスターのコーヒーの味がお気に入りだったんですか?」
「ううん、あんまり。おいしいコーヒーは他にいくらでもあるわ。でも、この人が淹れるコーヒーはね、口に入れた瞬間に“予感”がするの」
「“予感”ですか…」
「豆の香りや酸味、苦味がこれから広がる“予感”ね」
「でも結局“味がしないコーヒー”って言われてたよ、ソウルではね。自分では精一杯淹れてるつもりなんだけどね」
マスターはさびしそうに笑った。
「でも、本当にそれで良かったんですか?」
「さあ、コーヒーが出来上がったよ。君はまだ若い、喉が渇いてるだろう、早く飲みなさい。」
マスターは最後の質問に答えることはなく、私がコーヒーを飲み終えるまでの間ずっとソウルとは逆の方向をみつめていた。
なるほどコーヒーには味がなくお世辞にもおいしいとは言えないものだった。
それがマスターの腕のせいなのか、自転車の漕ぎ過ぎで味覚がおかしくなったせいなのかはわからなかった。ただ、コーヒーを淹れるマスターの姿は、自分の人生そのものを一杯のコーヒーに移し替えているように見えた。
著者情報 RIKUTO
北海道在住 ツアコン担当
こんにちは!
↑上記の動画で体験した韓国自転車旅行での人との交流エピソードを記事にまとめて見ました。
少しでも読者様の参考になれば幸いです!
0 Comments